二度あることは三度続く、四度も、五度もね……

 

 

突然だが、仕事がうまくいっていない。

 

仕事がうまくいっていない、といっても、

何か大きなミスをしたとか、

上司にしこたま怒られたとか、

仕事でたまたま学生時代の嫌なやつに会ったとか、

そんな話ではなく、

 

仕事の手探り感が続いていて、

漠然とした将来への不安や、

自分の中の正解が見つからず、

ずっとピンとこない、この仕事の何が良いんだっけ?

と自問自答を繰り返す、

曖昧で釈然としない感じだ。

 

 

そんな時、自分は料理を作ることで癒されている。

 

料理を作るのが大好きとか、

食べることが一番の趣味とか、

そんな感じではなく、

ただただ淡々と黙々と料理を作る、

そんな殺伐とした料理作りに癒されている。

 

基本的にはレシピ通りに作る。

調味料を量って、時間を測って、

機械的に作業する。

そうするだけで美味しいご飯にありつけるのだ。

 

何が正解なのか、

自分はあれでよかったのか、

このままの自分じゃダメなんじゃないか。

 

そんな曖昧模糊とした不安と、

複雑で儲け主義的な化け物のような資本主義社会と比べたら、

はるかにわかりやすい行為だ。

 

切って、量って、測って、完成する。

 

正解もわかりやすい。

美味ければいいし、焦げてなければいい。

究極、自分が食べられればいいのだ。

 

もうよくわかんない仕事から離れて、

確実な手触り感を感じることができる料理に没頭する。

今、ここに集中するのだ。

 

これこそマインドフルネスではないか?

 

 

と、持論をあさっての方向へと広げはじめてしまったが、

今日はなんと事件が起こってしまった。

 

 

 

 

 

そう、

失敗した。

 

 

 

 

いや、「レシピ通りに作る」って書いているのに失敗するって?

と思われそうだが、

見事に失敗した。

 

 

作ったのは人生初めての親子丼だったのだが、

端が丸焦げになった。

 

 

親子丼って焦げるんだ、

そうだよね、火を使うもんね……

 

なんてことを呆然と思いながら、

今日のご飯にありつくために、

焦げてないところを必死に探して掬い取った。

 

 

惨めである。

 

 

敗因は、自分が卵嫌いなことにある。

 

実は、固茹での卵が大の苦手だ。

ハードボイルドされた卵のあの硫黄の匂い……

そして、その匂いを放つ、生に近い卵も苦手だ。

 

シャノアールで卵サンドを食べたときに、

えづいたことすらある。

 

その時は、友人といたので必死に飲み込んだが、

全身の拒否反応が凄まじかった。

 

しかも大学入学したてだったので、

あそこでえづいたら、その子の中の自分は

卵サンド口から爆裂人間確定だったかもしれない。

喉の筋肉によって胃へとぶち込んでことなきを得た。

 

 

卵で唯一許せるのは、

温泉卵とめちゃくちゃ焼いたスクランブルエッグ(ただし醤油で風味を消す)だ。

 

 

 

話を戻すと、

煮詰めた鳥のむね肉と玉ねぎに溶き卵をかけ、

レシピ通り1分ほど待った。

 

しかし、蓋を開けても

溶き卵がまだぐじゅぐじゅな状態で漂っていた。

 

そりゃもちろん、

ふわとろの「とろ」が大好きな人はいいかもしれないが、

自分としては「とろ」を「ふわ」へと昇華させたい。

 

レシピを無視して、数分煮詰めた。

そう、「レシピへの反逆」を決行してしまったのである。

 

しかし待てども待てども、

「とろ」はしぶとく生き残っている。

途中、「とろ」部分を火の強いところに流し込んでも、

なぜか「とろ」が消えない。

 

 

もしかして、

これはあったかご飯に乗せて完成するのでは!?

と思って火を止めたのも遅く、

端は豪華の炎で黒く焼かれていたのだった。

 

 

これを機に、

レシピに反旗を翻すのはやめよう。

こうやって、王家にあだなす反乱軍は

ひとり、またひとりと大人しくなっていくのかもしれない。

 

 

しかし、これはまだ悲劇のはじまりに過ぎなかったのだ。

 

 

黒焦げ救済丼を、「意外といけるじゃん」とバカ舌で食べ終わり、

心が折れて放置していた洗い物に手をつけはじめた。

 

テンションを上げるために、

ノリノリの音楽をかけながら、気合を入れていた。

 

 

洗い物の量が多かったので、

シンクの上の方にぶら下げていたまな板を外して、

後ろを向いてまな板を避難させていると、

 

 

 

ボチャッ

 

 

 

ビチャッ

 

 

 

 

え?

 

 

 

振り返ると、

食べ終わって水に浸けていたお皿の中で、

コショーが浮いていた。

 

しかも、跳ねた水で私は足を盛大に濡らしていた。

 

 

 

 

………まぁ、想像できなかった自分が悪いんだし…と、

悲しみを抑えつつ、足を拭いていると、ふと「待てよ?」と。

 

 

 

 

コショー、無事か……?

 

 

 

 

 

慌てて、泳いでいるコショーを拾い上げると、

もうそこはお約束通り、

蓋の中もビチョビチョだった。

 

 

なぜお前が落ちたんだ……

よりにもよって……

 

 

黒焦げ丼を食べたあと、

水かけ、コショー水没とツイてない。

今日はそういう日か……と思って洗い物を開始すると、

 

 

あれ?

このお皿、こんな凹みあったっけ?

 

 

 

 

コショーはやりました。

見事に皿にクリーンヒットして役目を終えたのです。

 

 

 

こんなことある?

 

 

黒焦げ、水かけ、

コショー水没、皿お陀仏。

 

 

しょうもない韻を踏んでしまったが、

地味に嫌な悲劇が続いてしまった。

 

 

仕事がうまくいってないから料理を作る(キリッ)としていた、

平穏を返してほしい。

 

 

なぜこうなってしまったんだ……。

もしかして、「もも肉」を買ってきたつもりで、

間違って「むね肉」を買ってしまったところから、

この悲劇ははじまっていたのか……?

 

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食後のデザートに。

「いちごバターアイス」なるものを食べたのだけど、

家に持って帰る間で溶けてしまったのか、

盛大に曲がっていた。

 

美味しかったからいいけど……。

『幻の光』感想/原作とメディアミックス

 

 

◆『幻の光』感想

 

宮本輝の『幻の光』を読んだ。

喪失の物語であるのだが、あたたかさがある。

冷たい物に触れたとき、その冷たさに驚くと同時に、

自分という身体のあたたかさも感じるような、そんな読後感だった。

 

短編になっているが、

空気感は一貫して、どんよりとした鈍色の空を思わせる。

それがなぜか心に馴染むのだ。

 

何というか、現実の濃度が同じに感じるのだ。

冷たすぎずあたたかくなりすぎず、

悲惨すぎず、幸福すぎない。

現実と物語、同じ濃度のものが本という半透膜を通して並んでいる。

そこに浸透圧は起きない。

 

通常、物語と呼ばれるものにはクライマックスがある。

登場人物の世界が一変するような出来事。

物語の、物語たり得る部分。

日常の連続だけでは物語にならない。

 

あるときは、普通の大学生がデスノートを手にして、

世界を変えようとして、最後は死神に見放される。

 

あるときは、桃から生まれて、

鬼退治をして、宝物を得て幸せに暮らす。

 

普通の世界から異界へと、

異界から現実へと、

物語から生まれるカタルシスがある。

 

 

しかし、『幻の光』には、

そうしたわかりやすいカタルシスはないように感じる。

あるのは、登場人物たちの心の中のカタルシス

 

取り立てて大きな出来事や、

日々が一変するような出来事が生じるわけではない。

しかし登場人物たちが過去を遡ることで、

現実の受け止め方が変容していく。

 

その心の変化の連続が、日常を生きるということなのかもしれない。

だからこそ、この物語は自分たちの現実に地続きのような感じがして、

曇天のような景色の中にほのあたたかさを感じるのだ。

 

 

 

◆くだまき

 

なんでデスノートと桃太郎?

 

他になかっただろうか?

 

なぜひとつは漫画で、

ひとつは童話なんだ。

 

 

もちろん、デスノートは面白い作品だし、

桃太郎は誰もが知る作品で、

そのふた作品が悪いとかではまったくないのだが。

 

 

うーむ、『幻の光』という作品に合ってなくないか。

この、日常と喪失、淡々としつつもあたたかさのある作品……

 

そうだ!

『この世界の片隅で』はどうだろうか!

 

 

しかし、映画しか観たことがない……

(こうの史代先生、ごめんなさい……)

 

原作はもうゲットしているものの、

なんだかんだ読めていない。

 

幻の光』も、数年前に購入して、

やっと積読を解消したのだ。

 

明らかに買うスピードに読むスペードが追いついていない。

高速移動している点Pが、点Qを追い越している。

 

 

話は変わるが、映画にしろ小説しろ漫画にしろドラマにしろ、

原作を読んでいないと申し訳なさがすごい。

 

なので最近知り合いに、

「やっと『鬼滅の刃』観終わったんですよ!」と言われて、

「アニメはちょっとしか観たことないんですけど、漫画は読みました」という自分の発言に対して、

「えっ、漫画派ですか?」

と言われると、そうじゃないの舞を舞いたくなる。

 

そうじゃない。

 

でもその理由を表立って言うと、

 

原作原理主義者

お高くとまった原作厨、

『この世界の片隅で』を読め

ついでに攻殻機動隊の原作を読め

オタクのルールこわ

そういった人間のせいで界隈に人が寄りつかなくなるんですよ!

進撃の巨人』の映画版を好きな人もいるんです!

古参アピきっしょ

めんどくせー、お前とはもうこういう話しないわ、じゃあな

 

と言われそうで、

「ね! アニメおもしろいみたいっすね!」

と返すのみにとどまっている。

 

もちろん、上に書いたのは誇張のオンパレード……

偏見の箇条書きストロングスタイルだが、

そもそも"原作"とアニメ化作品を分けようとすること自体、

無粋に感じる人もいるかもしれない。

 

原作に触れるのがマナーな訳ではない、

ともちろん思っているけれど、

原作を知らないと、その作品の大事な部分を取りこぼしているような気がしてむず痒い。

 

誰かの話をまた聞きしている感覚とも言えるだろうか。

自分の好きな作品がアニメ化して、

楽しみにリアタイしたら、ちょっとイメージと違ったりとか、

あ、このシーンって省かれたんだ……と制作者と自分の好きポイントが異なったりとか。

 

漫画のテンポ感とアニメのテンポ感は違うし、

1クールに収めようとすると、完璧な再現なんて無理で。

 

そもそも再現なんて必要なくて、

シャフトのようにシャフト節をきかせてくれた方が

原作の尖った部分を表現してくれているなと感じる、など、

原作とメディアミックスの関係性など、媒体ごと監督ごと作者ごとに違うのだろうが、

そうした違和感を感じることもあり、

だったら原作を読めば、その作品のオリジナルの良さを直で浴びることができるのではないか。

 

そうした思いが心の片隅にあり、

まずは原作を手に取ることが多い。

 

でも、アニメで見て、

この雰囲気好きだァと思って原作を手にとった『彼氏彼女の事情』は、

原作とアニメで全然テイストが違ったりするし、

ブレードランナー」を観たあとに、

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読むと、

映画を観たおかげで理解が捗ったりする。

 

 

メディアミックスされた作品があまりに違うと、

もう別作品として楽しめるのだが、

原作のストーリーをそのままドラマ化した、アニメ化した、だと、

その差異に目がいってしまうのかもしれない。

 

 

面白すぎて、勢いで全巻読んだハリーポッターシリーズは、

周りに映画版を観た友人しかいない。

そういう自分は、「秘密の部屋」までしか映画を観ていない。

 

それでも、友人が話した、

毒薬を飲み続けるダンブルドアのセリフを

飲み会で活用して盛り上がったという話に馬鹿笑いできるので、

さまざまなメディアにファンがいて、

作品を触れる機会が多いということは良いことなのだろう。

 

もちろん、無理矢理飲ませるのは絶対NGだが。

 

 

◆余談

 

自分へのご褒美よ、と思って、

Rodda’sのスコーンとクロテッドクリームを購入したら、

クロテッドクリームは冷蔵庫に入れ忘れて一晩経ち、

スコーンはトースターの激ヤバ火力で熱々に焼いてしまい、

真っ黒に焦げた。

 

焦げ以外をかき分けて食べたらとてもおいしかった。